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五木の子もり唄|日本の子もり唄に見る昔の山村の情景

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日本の昔の貧しい山村

 昔、日本の山深い村では、少数の地主が土地を所有し、村人の多くは地主の下で林業に従事したり、地主から借りた土地で農業を営んだりするほかはありませんでした。 貧しい山村では、子供を他家の子守奉公に出したり、若い娘を他県に出稼ぎに出したりすることがありました。

 「五木の子もり唄」で有名な熊本県球磨郡五木村は前者を代表する村で、他家へ子守奉公に出された守子の生活の辛さが「五木の子もり唄」の歌詞から読み取れます。
 また、後者では飛騨地方の村から信州の諏訪や岡谷の紡績工場へ出稼ぎに行っていた「女工哀史」の話が有名で、女工たちが飛騨から信州に行くときに越えた「野麦峠」とともに語り継がれています。

「五木の子もり唄」(熊本県地方子もり唄)

子もり唄誕生の背景

 熊本県球磨(くま)郡五木村は人吉市の北、川辺川の流域に開けた山間の狭い盆地の村で、その最上流には秘境五家荘があり、平家落人の里として知られています。相良氏の旧幕時代以前から、地頭と呼ばれる富家と名子(なこ)と呼ばれる貧農とに分かれ、名子の子女は地頭の家で子守として使われました。そして子守娘が薄幸の悲しい境遇を嘆く、哀愁を帯びた唄が歌い継がれました。五木村で歌われる子守唄は現在一般に歌われている節(ふし)とは全く違い、下の句を繰り返す素朴なものです。 現在一般に歌われている三拍子にしたのは古関裕而で、昭和27年NHKから放送されました。 (長田暁二編 日本抒情歌全集より引用)

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五木村

歌詞

おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先きゃ居(お)らんど
盆が早よ来りゃ早よ戻る

おどま非人非人(かんじん かんじん)
あん人達(たち)ゃ良か衆(しゅう)
良か衆(し)ゃ良か帯良か着物(きもん)

おどんが討死(うっち)んちゅうて
誰(だい)が泣(に)ゃあてくりゅうきゃ
裏(うら)ん松山蝉が鳴く

歌詞の意味

子守り奉公もお盆で終わり、もうきつく辛い思いをするこの家にいないですむ。お盆が早く来れば、父母のいる我が家に早く戻れるのに……。

私たちの身なりや身分は乞食同様で人扱いされていない。あの人たちはお金持ちだから、上等の帯や着物を身につけている。

私が死んだら、だれが悲しんでくれるだろう。裏の松山で蝉がなくだけだろう。

備考

 「おどま」は「私たち」、「おどん」は「私」という人称代名詞です。
 二番の歌詞にある「かんじんかんじん」には「非人非人」でなく、「勧進勧進」と記したものもあります。   
 「非人」とは  近世幕藩体制の身分制度において賤民身分として位置づけられた人々に対する身分呼称の一種。 出生によるほか,刑罰によるもの,生活困窮などにより乞食浮浪して非人になるものとがありました。
 「かんじん」は正確には「勧進聖(かんじんひじり)」のことをいいます。勧進の原義は衆生救済のために,諸国を歩いて念仏を勧めることにありましたが,莫大な経費を必要とする堂塔などの創・再建の資財調達を主目的として回国する聖を勧進聖と称するようになりました。さらに時代が下ると勧進聖を名乗って実態は物乞いなどの行為を行う者も現れるようになり、世間一般から蔑視されるような状況にもなっていきました。 五木の子守唄で「勧進勧進」と記してある場合の意味は、僧形で物乞いをする人、要するに乞食のことを指しています。
  二番の歌詞の「かんじんかんじん」が「非人非人」の場合も、「勧進勧進」の場合も共通しているのは、守子が奉公先で人並の扱いをされていないということです。

 五木の子守唄は様々な歌詞が伝えられており、どの歌詞が元歌なのかも不明であり、そのルーツを明らかになっていないようです。

「五木の子守唄」外部リンク

「五木の子守唄」のYoutubeを外部リンクしておきます。興味のある方は下記のURLをクリックしてお聴き下さい。

https://www.youtube.com/watch?v=r16_GLtalZM

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