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椎葉移流(シーハイル)

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仏道修行者に求められる帰依心とは何か

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帰依心とは

人間が、本質に目覚め、真実に生きると言うことは難しい。
どのような生き方が本当の生き方であり、どのような生き方をしなければならないかというと、結論的には帰依心を持つことです。
帰依心とは、死んで大自然に帰って行く理を悟ること。判りやすく言うと、神の許に帰って行く自分であることを知ること、これが帰依心です。

信仰する上に帰依ということが、どのようなことであるか、死んでどのような世界に行けるか、生きている間に拠り所をどこに置けばよいか、このような問題も加味されて来ます。

観念的にしか神仏がわからなかった従来の教え

今までの生活、習慣、信仰においては、神や仏に帰依する、阿弥陀如来に帰依する、観音様に帰依するといった表現をするが、その阿弥陀如来なり観音様が、どのような仏であり菩薩であるかということを知らないで、観念的に習慣的に言っているにすぎない。法然にしろ、親鸞にしろ、日蓮にしろ、唱題の他に詮なしとしたのが落ちであった。アミダ仏がどこに居るか、どのような仏であるかということは、観念的に学問的にしか知らなかった。

本来の宗教に求められるもの

宗教は本来、神とは、帰依とは、仏とはどういうものかを説き、人間が信仰することによって安心を得ること、神の許にも行けることを実地に示せるものでなければならない。

宗教的歴史が始まって四千年、四千年の間、神について研究を重ねて来ているが、今尚、神がどういう存在であるか知らないのが実情である。

人間は本来「神の子」

人間は本来、神の子である、と言葉で表現した場合、抵抗を感ずるでありましょう。ところが人間は大自然の一部分である、と説明すれば、それはそうだと肯定すると思う。然らば大自然とは何かといった場合、これは一つ一つ積み重ねて、結論付けて行った場合、神がどういう存在であるかということがわかるはずです。が、ただ、神ということになると従来の観念、世間でいう神、それと同じように考えるから答えが出ないのではないか。

自分の肉体は大自然の一部だということが肯定できるとして、その次の肉体を動かしてくれるもの、生かしてくれているもの、これが存在するとすれば、それは何であるか、これは大自然の動きの一部であります。このように一つ一つ積み重ねて見ることです。結論が出ると思います。

仏・菩薩と根本神

大自然の動きについての悟りを開いた結果、結論を出し得るだけの人、これが仏であり、菩薩であるということになるのですが、その上に総てを支配する何かがあるとすれば、仏や菩薩や神々に命令することも出来るし、支配することも出来る存在、これが根本神であるのです。

真理世界を知ることが出来ないのは何故か

どうして真理世界(眼に見える表の世界、眼に見えない裏の世界も含めた大自然の動き)を知ることが出来ないか、そこが問題です。それは、自分自身の中に浸ってしまって、そこから一歩も出ることが出来ないためないのです。これが出来ればおそらく神にも仏にもすぐなれましょう。

所謂、俗界に片足、聖なる世界に片足を入れているような姿ですので、どちらかを断ち切らなきゃ、中途半端な立場で悟りを得ようとしたって、得られるものではありません。俗・聖両界に片足ずつ入れていたのでは、本物を掴むことはできません。

生半可な信仰はしないこと

帰依心というものがどういうものであるか、誰に帰依するか、死んだ後は、誰を頼りにどこへ帰ればよいか、生きている間は誰を目標に拠り所とすればよいか、この点をお考えの上、信仰すべきであります。

あなた方が、自分でこれなら間違いない、といった気持ちになった時、心から帰依することであります。この心からの帰依によって初めて本質に目覚めたといえるし真実に生きるということになるのです。人間の生きるということは難しいことではあるが、真の帰依体を知り、誠なる帰依心をもって生きるなら至難などころか、むしろ安心した境地で生きることが出来るのです。信仰する人は此処まで至らなければならないとするのです。

記載者備考

仏教では根本陣は大日如来(マカ・ベルシャナブツ)とされています。

 本記事は、私が20代半ばで出会ったある宗教家の「詞(ことば)」を記載したものです。

 仏教では菩薩(十界の頂点である仏界の次に位する菩薩界に住する存在)でさえ仏の教えをそのまま伝えるだけで自らの考えを述べることはないとされています。

 聖者の詞に、「理性は悟りを得るのに邪魔になる」とあり、釈尊の詞に、「理屈を言う者、学者は救いがたし」とあります。故に、仏陀や聖者の詞に接した者は、説かれた詞をそのまま多くの人に伝えていくことが大切であると考えます。