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修行の伴わない信仰ならば、しないほうが良い

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他を批判する信仰者の姿

 信仰者の信仰姿勢も様々であるが、概ね、神を信ずる者は信じない者をなじり、信じない者は信ずる者を笑う。しかし、なじる者、笑う者のいずれにおいても、神のことを正しく知っているかどうかは甚だ疑問である。
 さらに、神を信ずる信仰者においてさえ、他の神信心や信仰者をけなし、互いに正邪を譲らず相争う姿は古今東西において見られるところである。

容易でない正邪の区別

 古今東西において、他宗や他の信仰を邪教や邪信と批判し、自宗が正しいと主張する世界ではあるが、神信仰の正邪を見分けることは容易なことではない。
 何を以って正と言い、何を称して邪と言うのであろうか。他宗を批判するそのほとんどは、皆、我が教えは正しいという我田引水に他ならない。

信仰における正邪の判断

 信仰における正と邪の判断は、信仰の対象が正しい神(正しい教え)であることは論を俟たないが、正しい教えを受けているから無条件に正しい信仰をしていると言えるものではない。正しい教えを受けていても、その行い正しからざれば正しい信仰と言えないことは勿論である。従って、信仰の正邪はその神を信ずる者の心にあるという他はないと言える。
 故に、大切なのは、神にあらず、寧ろその人の心である。人の心が清浄であるならば、自ずからその心は神に通じ、神も亦その人を護るものである。この神こそ正しい神と称すべきである。  
 逆に、心が不浄で我欲の強き者を護り、これを導く神があるとするならば、このような神は邪神である。
 神信仰が信ずる者の心次第というのはこの故である。

(補足)信仰の対象が正しくない場合でも、信仰者の心が清浄ならば何かを契機に、正しからざる教えから離れ、神に導かれて正しい教えに繋がる道が開けるものである。逆に、正しい修行方法を持つ宗教団体や信仰団体に属していても、自らの心が清浄でなければ正しい神の導きは期待できないものである。

先ず心の浄化を

 人々が神を信ずる前に、先ず心を清浄にし、己を正しく持することに努力するならば、この清浄なる心を持つ者として、神の世界に導き入れてくださることは疑いのないところである。心を清浄にし、己を正しく持することに努力すること、これすなわち信仰者のすべき修行である。

 正しい神の世界に導かれて、はじめて正邪分別も確立し、神への信仰も不動となり、他を包容できるようになり、他を排斥する如き心も立ち消えてしまう。このように、神の道を知ってはじめて真の融和が生まれるのである。

 信ずる者の心によって正しい信仰は芽生え、神はこれを正しく導くものである。

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