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供養と祭りは意義において同じ
祭りというのは神道における行事のことであって、仏教では供養といいます。供養と祭りとは表現こそ違うが本来の意義においては同じです。
供養の意味
供養はご存じのとおり、お釈迦様の前で、あるいは如来の前において、何がしかの間、己の行ったことを報告し、そして改めるべき点があったら改め、或は、褒められる点があったらほめてもらうようにして、自己の成長を計るべく精進することを誓うのが本来の供養です。
勿論、自己だけでなく、縁者共々行うのも亦同じです。
祭りの意味
神道の祭りも、神の前に自己反省、或は懺悔し、更に、自己の行いを報告するなど、いわば祖先や先人に自己並びに隣人が一つになって敬い報いることこれが祭り本来のあり方です。
畏敬の念が薄らぐ中で形骸化した供養と祭り
供養においても祭りにおいても、上記したような本来のあり方を忘れ形骸化したものが多くなってきています。

拝金思想や物質万能主義が闊歩し、自然や神仏への畏敬の念が薄らぐ中で、自己反省の心や他者への思いやりの心は忘れ去られようとしております。
そのような社会の変遷と人心の変化に伴い、供養においても祭りにおいても、感謝と自己反省の心を伴わない形骸化したものが殆どとなってしまいました。
古い時代と比べて人間は良くなっているか
技術も20世紀後半から飛躍的に発達し、今やAIや遺伝子組み換えなど神の領域に入りつつあり、それを利用する人間の意識レベルの向上が必要なときですが、古い時代と新しい現代を比べて見て、果たして人間が善くなっているかというと、善くなっていると断言できないのではないでしょうか。
物質生活が豊かになるに従って、精神生活は疎かになり、精神生活が疎かになるに従って、社会は混乱して行くと言うことからして、今日の社会が善くなったとは思われません。
畏敬の念・謙虚さを忘れず意義ある集いに
現在コロナウイルスが世界をパンデミックに陥れていますが、その対応は医学的側面からだけでなく、社会的側面からの対応も必要なものであり、人間の意識レベルによって対応や対策が大きく異なってきます。
21世紀は疫病の(今後も異なる疫病が発生する)時代とも言われています。そのような時代に向き合っている我々であることに鑑み、自然や神仏への畏敬の念、謙虚な心を取り戻し、自然との共生を真摯に考え直すときであるように思われます。
その動きの一つとして、供養や祭りにおいてもその本来の意義に立ち返り、自然の恵みに対する感謝を示す場としての集まりにしていけたら良いと思われます。
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