密教と顕教

密教とは

 密教(みっきょう)とは、感応道交によって、祈る人が神から直接教えを受ける宗教のことです。教わる内容は教える神と教えを受けるその人以外が知ることが出来ず、他者が窺い知ることが出来ないことから、秘密の教え、略して密教と言われています。

顕教とは

 これに対して、顕教(けんぎょう)とは、教え主の説法、経典やバイブル、すなわち話し言葉や文字によって弟子や信者に教えを説く教えのことです。その教えの内容が、その言葉や文字に接した誰もに顕(あき)らかであることから、顕教(けんぎょう)と言われます。従って、一部の高弟や後継者にのみ伝える秘伝の書を有していても顕教になります。

真言宗と他の教え

 日本の歴史上に現れた宗教についていえば、空海が唐の恵果阿闍梨から勧請(かんじょう)を受けて日本に伝えた真言宗が真言密教として知られています。唐から帰国した後、最澄が空海の勧請を受け、天台宗に密教部門を設けようとしたことが伝えられていますが、天台宗は密教ではなく顕教になります。

新興宗教

 また、新興宗教は巷に数多く存在し、多くの開祖が神秘世界の存在に感応して新たな新興宗教を興しています。開祖が神秘世界に感応した段階は密教的と言えますが、その内容を弟子や信者に伝える段階では、説法や文字で信者に教えを説いており、教えの体系を有していたとしても、顕教となります。そのような中に、感応の優れた人が行中に神秘体験をすることを時折見受けますが、その人だけの偶々の体験であり、密教と呼べるものは見当たらないようです。

行を売り物にするもの

 また、力をつける行を売り物にしているオーム真理教とその後継団体のような団体も巷には存在しますが、人間完成のための教えの体系を持っているわけでなく、宗教と呼べるものではないようです。ちなみにオーム真理教は、欧米では宗教団体ではなくテロ集団としてマークされています。

神秘力と人間性

 人間は霊的存在であり、感応の強い人の神秘体験を巷で耳にすることがあります。

顕教的に説かれた釈尊

 釈尊の時代、人間性を忘れて神秘力を身につけるための苦行を続ける多くのヨガ行者が巷に溢れていました。このような行者の姿を見られて、人間性の伴わない神秘力は危険とされ、自らは他の行者が遥かに及ばない神秘力を備えておられながら(釈迦伝参照)、人間作りが基本であるとされ、自らの悟りの内容を少しずつ顕教として弟子たちにお説きになられたのです。その内容を後世に弟子たちが思い起こしてまとめたものが仏教経典として現在に伝わっているものです。

涅槃会において観せられた神秘世界

 尤も、涅槃会において高弟を集められ、神秘世界の一端をお観せになられましたが、受け入れ態勢の不十分であった弟子の一部は、師は魔法を使って自分たちを驚かすのかと言ったということが記録に残されているようです。
 このとき弟子たちが観た神秘現象を、後世に民間伝承を混在してまとめたのが華厳経です。釈尊が真理世界の一端をお観せになられたということで華厳経こそが最高の経典だとする宗派が法華宗です。密教に通ずる面はあるものの、真理の一端に過ぎないこと、釈尊の教え以外の民間伝承が混在するところに、これを唯一経典とするには無理があると思われます。

 釈尊の説かれたところからすれば、人間性向上を教えの体系に持たず、神秘力を売り物にするのは本来宗教と呼べるものではありません。その教えが人間性向上の修行体系を持ち、なおかつ感応道交の行法を備えていてはじめて密教と呼べるわけです。

宗教は頭で理解るものでない

 世の中には宗教を頭で理解ると勘違いしている人が多く存在します。とくに、教育が行き届き、頭でっかちになった人が多い現代では、多くの人がこの部類に属します。

 本来、宗教は人を安らいの世界(悟りの世界、不安恐怖心のない世界)に導くものであり、そのためには本人自身が人間的向上を目指して修行することが必須なのです。例えば、武術において、武術書を購入して読んで(頭でわかったつもりになって)みたところで、技が身につくものでなく、護身術や捕縛術として役立つものではないのは明白です。

 宗教は、外形的には武術のようなものを求められませんが、内面的には人間性の向上、感情の美化、識の浄化を求められるため、武術以上に修行の厳しいものです。ただ、現在の宗教において、そのような修行体系を備えたものは、非常に少ないものと思われます。

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