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上求菩提・下化衆生(じょうぐぼだい・げげしゅじょう)とは何か

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「上求菩提・下化衆生」

 「上求菩提・下化衆生(じょうぐぼだい・げげしゅじょう)」は仏教用語の一つです。字義通り解せば、上に対しては菩提を求め、下に対しては衆生を化すということになります。ここで上下とは世間で言う身分である王侯・貴族・平民とか社会や組織の中での立場の上下などではなく、覚りの境地の上下を表しています。すなわち、四聖道にいう仏・菩薩・縁覚・声聞、あるいは六道に言う天・人・修羅・餓鬼・畜生・地獄などをいいます。また、化するとは染めるという意味で、先達が後進を自分の思想や境地に近づくよう導くことです。
 また、この言葉は 「上求菩提」と「下化衆生」の二つに分けて個別に用いられることもあります。

「上求菩提」とは

 「上求菩提」とは仏教修行者が上に菩提を求めることです。

「菩提」とは 仏の正覚の智、さとり、仏の悟りの境地、悟りの智慧などを意味しています。また、「上」とは菩薩からすれば師である仏のことであり、一般修行者からすれば手を合わせ導きを願う対象の仏・菩薩のことを指しています。
 したがって、一般的な表現をするならば、「上求菩提」とは仏教修行者が仏・菩薩に覚りの境地への導きを願い自らを高めるべく修行に努めることをいいます。

菩提薩埵(ぼだいさった)

 菩薩とは菩提薩埵を略したことばであり、意味は菩提を得た人(覚りを得た人)と言う意味です。菩薩は、大衆に真理を説く場合、仏のことばをそのまま伝える資格しかなく、自分の考えを述べることは出来ない立場とされています。これは宇宙真理の理解において、わずかでも不十分な点があった場合、人を経るごとに真理からずれていくからである。菩薩より下の縁覚・声聞においては、大衆に説く立場にないとされています。

「下化衆生」とは

 「下化衆生」とは、仏教修行者が、道を求め自分の後を歩んでいる衆生、あるいは道もわからず迷いの世界にいる衆生を化する、すなわち仏教修行の正しい道に案内したり、正しい修行意識(神仏の意に叶う意識)に染めていくように努めることです。大衆のいる低い俗な世界まで降りて、大衆を救おうとする地蔵菩薩の動きは下化衆生の代表的なものですが、現実界において仏教修行を志す者や、仏教僧侶などは利他の精神を持って迷い多い衆生を導く役割があります。すなわち下化衆生の実践です。
 世間にある寺院や信仰団体が、檀家衆や信者に真の救いの道を示すことなく、布教したり布施を求めたりするのは、真の下化衆生には程遠いものがあります。

下化衆生は余力をもって

 人間界は六道雑居の世界であり、人間の姿をしていながらその心は四悪道(修羅・畜生・地獄)に陥っている者もあります。そのような世界に陥っている者に手を差し伸べ人としての正しい道に導くのも下化衆生です。ただし、修行によってある程度の力をつけ、余力をもって相手を化することが大切であり、余力なく逆に相手に引きずり込まれるような状態では化するなど出来ないことです。これが修行者に求められる正しい判断力であり、八正道の「正見」、「正思」、「正業」に通じるものであるのです。

仏教修行者にとって無くてはならない車の両輪

 「上求菩提・下化衆生」は仏教修行者にとって何れもなくてはならないものであり、車の両輪のようなものです。
 上求菩提をしない者が下化衆生できるわけもなく、上求菩提をしても下化衆生に取り組まない者は、利他の精神に欠けており、輪廻転生を繰り返し修行しても菩薩の世界にたどり着くことは難しいと思われます。根本仏教の時代の後、大乗仏教が出現しますが、その精神が大衆を救おうという下化衆生です。
 現在の日本の仏教宗派は何れも大乗仏教の流れを組んだものでありますが、上求菩提・下化衆生を実践している宗派ははたしてどれくらいあるのでしょうか。

補足 

菩提(ぼだい、梵: बोधि; bodhi、巴: bodhi)とは、サンスクリット語・パーリ語のボーディ(bodhi)の音写であり、仏の正覚の智、さとり、仏の悟りの境地、悟りの智慧などを意味する仏教用語。

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