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人の動きはすべて意識の働き
五感六識で説明したように、五感の統合されたのが意識であり、意識の中に感情のすべてが含まれている。人間の感情が微妙で複雑であるのも、五感の観察と意識の判断、分析の表れで、意識を離れて感情、理性ともに存在しない。喜怒哀楽の感情から仁義礼智信に至る理性のすべてが意識の現れであり、感情の健全・不健全、理性の正・不正もすべて意識によって生ずるものである。人間の動きは意識を離れては何一つなく、意識が尽きることは人生の終末を意味している。
意識の段階的区分(雑識、悪識、良識、浄識)
雑識は動物的本能
意識するまでの働きは人間も他の動物の本能と変わりはない。意識したことを表現したり行動に移して行くにおいては、人と他の動物は同じではないが、雑識までは人も他の動物と変わらないし、動物的本能に支配されているといえる。そして、雑識の中に感情と理性、善と悪、正不正、良不良が同居している。
本能識(雑識)を磨くこと
本能識(雑識)を中心に考えたり行いをする場合、善事に及ぶこともあり悪事に及ぶこともある。この善悪の二面を持つのが本能であり、本能を善に向けることによって菩薩にも仏にもなり、あるいは神として祀られるようにもなるが、悪に向けることによって魔にも夜叉にもなる。ここに本能識(雑識)を磨く必要が生じてくる。
雑識、悪識、良識、浄識
意識を段階的に区分すれば雑識(ぞうしき)、悪識(おしき)、良識(りょうしき)、浄識(じょうしき)と四つに区分できる。雑識すなわち動物本能の中に含まれているのが悪識と良識で、このどちらかによって現象化したのが、結果的に悪と善の別れとなる。
自我意識の無い意識、すなわち浄識を備えた聖人君子においても、本能識(雑識)を出発点として、良識、浄識を備えてその境地に至ったのであり、最初から良識、浄織を備えていたというわけではない。
浄織は先天的に備わった場合もあるが、これは極めてまれなことであり、大部分が後天的環境や修養によって完成されるものである。
菩薩と浄菩提識
浄識が修養によりさらに浄化された場合、浄識のレンズで物を見るから、透き通って見えもし、ありのままの自然美を楽しむことも出来、不自然なものは映らなくなる。色相是空、空即是色という境地で、満ち足りた相で自然と和し、花を見ても美しく、月を観ても楽しく、自然に溶け込んだ自我意識を完全に超越した境地。これが浄菩提識(じょうぼだいしき)であり、菩薩が備えているとされる境地である。
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